オバマ大統領の広島訪問に思うこと

gazou 071
竹原市のレモン畑から瀬戸内海を見たところ。専門学校のとき、竹原、福山、
広島から大阪に来た男の子たちと仲よかったけど、この人たちは大阪でも
広島弁で貫き通し、カープのファンであることをやめませんでした。
感心したわたくしは、広島県人を大阪人と同じ箱に入れました。



わたくしが原爆資料館に初めて行ったのは小学2年生のときである。

祖父が広島に転勤になったため夏休みに10日ほど遊びに行ったのだ。
祖母は後妻だったため、母よりもわたくしに年の近い叔母と叔父がいた。
この二人と祖父母に甘え放題に甘えて夏休みを過ごした。

広島がどういう土地かも知らず行ったわたくしは
当然のように原爆資料館に連れて行かれた。
行く前に叔母と叔父が「蝋人形がコワイぞ~」と散々わたくしを脅し、
ビクビクしながら少し湿った木のニオイのする原爆資料館に向かった。

当時の原爆資料館は木造で「とりあえずいろいろ展示した」的な感じで
わたくしの通っている小学校によく似ていた。
覚えているのは蝋人形とおコメが真っ黒になったお弁当箱と、
原爆投下時に銀行の前に座ってた人の影が焼き付いた石段である。

蝋人形はとくに怖くなかったが、原爆のことはほとんど理解できなかった。

しかしこの後わたくしは暗闇を恐れる子どもになり、
豆電球をつけないと夜眠れなくなった。
某D社の元同僚も小学校低学年で資料館に行って以来暗闇が怖くなったらしく
同じような体験をした広島の小学生はきっと星の数ほどいるに違いない。

わたくしはその日の夜半、祖父のひざの上で「祖父も死ぬのか、
母も父もみんないつか死ぬのか」と質問したことを覚えている。
わたくしはこの時「死」の恐怖を初めて意識したのだと思う。

祖父の家は太田川の近くにあり、毎日夕方にシジミ取りに出かけた。
一晩水につけておいて泥を出し、翌朝のお味噌汁に入れるのだ。
ある時叔母が「あっちに人骨が落ちてて同級生が拾った」と下流を指差した。
川べりにはまだバラックが建っており戦争の名残があちこちに残っていた。

わたくしはそんな広島で翌年の小学3年生の夏も同じように過ごした。
行ったらすぐに原爆資料館にふたたび連れて行かれ、同じ展示を見て、
原爆ドームから広島城を抜けて歩いて帰った。

叔母と叔父は日々トイレの花子さん的な広島の怪談話でわたくしを脅かし、
夕方になるとシジミを取りに行って、夜は豆電球をつけて眠った。
祖父は翌年岡山に転勤になり、4年の夏休みは岡山に遊びに行った。

わたくしにとって広島は遠い土地になった。

6年のとき、父が貸本屋で借りた少年ジャンプで『はだしのゲン』を読み、
なぜか「日本が悪いことをしたから原爆を落とされた」と思った。
もしかしたら2年のころからうっすらとそう思っていたのかもしれない。
原爆は何かの罰だった。でないとこのような悲惨なことが起きるはずがない。

その後も折りに触れ原爆のことを考える機会があったのは、
祖母が被爆者手帳を持っていたからだろう。

看護婦だった祖母は原爆投下後の広島に鳥取から支援に行った。
中学のときにその体験を聞いたがわたくしはほとんど覚えていない。
被爆者手帳の話は後日母に聞いた。祖母は内緒にしていたからだ。

昔は被爆者が差別されていたし、その子どもも差別されたから、
祖母は叔母と叔父のことを考えて黙っていたのかもしれない。

部活であちこちぶつけて内出血し青タンを作りまくっているわたくしを見て
「紫斑病ではないか。白血病ではないか」と血のつながりがないのに
やたらと心配していたのは、常にその病が祖母の頭にあったからだろう。

そのような祖母が何か決意して中学生のわたくしに原爆の話をしたのに、
わたくしは適当に聞いてしまったのだった。わたくしは大馬鹿者である。

原爆資料館に再び行ったのは26歳のときだが、こぎれいになった資料館は
寒々としていてほとんど印象に残っていない。
無差別爆撃など一般市民を殺戮することの罪を認識したのはこの後である。

ヴォネガットの『スローターハウス5』で知った連合国によるドレスデン空爆や、
米軍の東京大空襲などの無差別爆撃についてさまざまなことを知ったわたくしは、
36歳のとき、さして期待もせずに再度原爆資料館を訪れた。

資料館は大変とてもきれいになり、展示も整理され、
近代的なわかりやすい施設になっていた。
そしてわたくしは過去に何度も見たはずの展示に非常に衝撃を受けた。

わたくしの脳内の「広島」という箱に乱雑に放り込んであった
小学生のときに見た資料館のさまざまなもの、バラック、祖母に聞いた話、
『はだしのゲン』『黒い雨』などで知った知識がビシバシとつながり、そして思った。

「アメリカ許さん!!!」

資料館を出て記念公園の碑を見てさらに怒りはつのった。
「過ちは繰りかえしませんから」とは何だ。一般市民が何をしたと言うのだ。

そしてわたくしは、小学2年のときこれを祖父に読んでもらって
「日本が悪かったのだ、原爆は罰だったのだ」と思い込んだことにも気がついた。

許せん、何もかも。

祖母が話してくれた原爆の話をちゃんと聞かなかった自分、
これまで原爆のことをちゃんと考えなかった自分も許せんと思った。
幼い時に考える機会を与えてもらったのにぼんやりしていた自分に
わたくしは大変とてもがっかりし、激しく後悔した。

8月6日朝、まさに「死が空から降ってきた」瞬間に死んだ数万人の人のこと、
生き延びた人たちに起きたこと、生き延びたのに後日死んでしまった数万人のこと。
一人ひとりに人生があり、親がいて子どもがいた。その人たちのことに
思いをはせているうちに、怒りは別の方向に向かっていった。

核兵器は存在してはならない、あってはならない兵器である。
そのような圧倒的な暴力を許してはならない。

先月、ケリー国務長官が原爆資料館を訪問した。その時の彼の顔を見て、
資料館の展示で衝撃を受けたのだろうと思った。
何度も行ったわたくしでも受けるのだから初めて行った人ならなおさらだ。

そして、オバマ大統領も資料館に足を運ぶといいなと思った。
資料館のさまざまなものを見たあとは自分の何かが永遠に変わってしまう。
米国の大統領であろうとおそらく同じだ。
資料館にはそうならざるを得ないものが置いてある。

「8月6日に広島で起こったいろいろなこと」を知ると、
あってはならないことが起き、使ってはならない兵器が使われたと
素直に、単純に、我が身のことのように考えることができる。

一昨日、オバマ大統領は広島に来て資料館をちょびっと見学した。

そのスピーチを聞いて、核廃絶は軽々にはできないかもしれないが、
世界が変わる最初の一歩になるといいとわたくしは思った。

世界が変わってしまった土地から新しい一歩を踏み出すのだ。
いい話ではありませんか。


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ほんたべ

Author:ほんたべ
手島奈緒
おいしい食べものをつくる人を紹介したり応援したりしております。ブログをまとめた著書『いでんしくみかえさくもつのないせいかつ』(雷鳥社)『まだまだあった! 知らずに食べてる体を壊す食品』(アスコム)『儲かる「西出式」農法』(さくら舎)など。現在ハンター修行中。

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